全力疾走はできません

その辺にいるオタクの妄言

高校を辞めた話(3)

さて、前回のお話は2年生にあがってすぐ心がぺしゃってなったお話でしたね。
あの程度で潰れるなんてメンタル弱すぎwwwと思われるかもしれませんが、いやそれはある意味正しいのですが、当時は一度潰れて必死に再建しようとしてるところでの圧力だったため簡単にぺしゃっとなってしまいました。

ぺしゃっと潰れたとは言っても、2年生になって心機一転頑張らなければと必死でした。クラスに馴染まなくちゃとか、勉強についていこうとか、そして部活に後輩ができたりとか。


書きやすいことから書こうと思います。部活について。

私の年はトランペットは不人気(第一希望は私だけ)だったのですが、一つ下は数人第一希望がいました。その中に1人、めちゃくちゃ上手い男の子がいました。トランペット歴がまず長い(多分、小5で始めた私より1年長かったと思います)。高音はよく出るし音もいい。楽譜の読みも正しいし、センスもある。一年生ながらも上のパートや難しいフレーズの曲を任せられる技術を持っている。素晴らしい後輩くんです。
すぐには関係ないのですが、この後この後輩くんの存在は、私の進路を決めるときに少し、影響してきます。

その子以外にも、パートに関わらず可愛い後輩がたくさんできて、私が絡みにいってもにこにこ対応してくれるいい子達ばかりでした。頑張らなくちゃ、そう思ったのを覚えています。一つ上のお世話になった先輩方にとって最後の大会が夏にある。一つ下ができたということは、私たちの年が引っ張る必要もでてきてる。しっかりやろう、そう思いました。



勉強について。
一年生であんだけできなかった人間が二年生になったところでできるわけがなかった…………てだけですね。課題や予習はやっぱり人並みもできませんでした。でも、一番ひどかった時期よりは、やってました。ちょっとだけだけどね。


クラスについて。
ここにきて初めてクラスが重荷になりました。実は1年の時は同じクラスに吹奏楽部がいなかったのですが、2年生では数人いました。これがある意味プレッシャーで仕方なかった。私がボロボロなのがバレる、と。
最初の、あの、どのグループに属するかみたいな探り合いの時期もすぎて、私は同じ吹奏楽部の子と、クラスでも責任感が強くて優しい子と、一緒にいるようになりました。

最初のうちは、学校にもなんとか行ってましたが、少しずつ少しずつ遅刻が増えていきました。少しずつ遅刻が増えたり、休んでしまった次の日は教室に入るのが怖くて仕方なくて、授業が始まる前のざわざわしたときに滑り込んだり、しばらくトイレに身を潜めたりしてました。でもまだ最初の時期はそんな重症じゃなくて、たまに、ほんとにたまに怖くて入れなくなる、そんな感じでした。どう、クラスの人たちから見られてるのかと思うと、怖かった。



新しい病院に行きだしたのが、多分、5月とかだったんだと思います。6月かな、7月かもしれない。覚えてないや。そこは薬の処方をきめてくださる先生がカウンセリングのようなこともしてくれるところで、なんとなく相性も良かったらしく、苦痛ではありませんでした。多少、前向きにもなれました。

頑張らなくちゃ、そう思ってたときに、また、何もできなくなる事件が起きました。



6月、だったと思います。多分、テスト前で部活禁止だったとき。いや、部活してたかな。同じグループの吹奏楽部の子と一緒に、教室を出て、靴を履き替えて、そして、その子からすごく言いにくそうに切り出されました。

要約すると「あなたとクラスで一緒にいたくない」と。

いえ、こんなに強い言い方はされてません。あなたが嫌いなんじゃないの、ただ人には波長とかがあると思うの。それがなんとなく合わないなーって思うの。だから、だからね、クラスでね。

そんな感じの言い方でした。

実は少し前から嫌われてるのかな、と感じてました。よくその、吹奏楽部の子をAさん、グループのもう一人をBさんとすると、やっぱり二人でいたがってたし。なんとなく、感じていたけど、私はそこ以外に居場所がないとも感じていました。いま、このグループを離れても、私はどこにもいけない、と。

課題をやってない後ろめたさ、テストがボロボロなこと、休みがちだったり遅刻をよくすること。そういった面をどう見られてるのかわからなかったし……裏で何か言われるのでは、という、そういった感覚もありましたから。私が唯一いれたそのグループは、AもBも裏表がないタイプ、悪口を言わないタイプと知っていたからでした。


だから、Aにそれを言われてるとき、やっぱりなと思いました。明日から一緒にいられないなと思いました。

ごはん、どうやって食べよう。
誰といたらいいんだろう。
どんな目で、見られるんだろう。

怖くて仕方がなくて、なんていうか、すみません覚えてないや。

次の日私は学校に行けてたのかな。


わからないけれど、とりあえずその後も学校には行ってました。少しずつ教室に入れなくなり、また課題や予習ができなくなり、そんな感じだけど、でもギリギリ学校には行ってました。ごはん、どうしてたっけ。覚えてないです。一人で食べてたわけじゃなかったと思う。トイレで食べてたわけでもない。どこかにこそっと入れてもらってたかな。迷惑だったかもなぁ。


一年生の頃より記憶が残っていないので、本当に精神的にきつかったんだと思う。でも学校に行って、部活に行って、それはちゃんとしてました。そこから離れることを考えることすらできなくなってきていました。ただ、この頃から部活を逃げ場所にできなくなっていきました。原因は、色々だと思うけれど。

多分、この時期から、トイレに引きこもることが増えたのかな。

遅刻して行って、授業の途中でクラスに入る勇気はなくて、人があまりこないトイレの個室に篭って、じっと次の授業が始まるのを待って。たまにその次の授業に出るのも怖くてそのまま1時間そこで過ごしたりもありました。部活には出なきゃいけないから、どうにか途中で抜け出してクラスに入るんですけどね。

あと多分この頃に、同じ部活の違うクラスの子に「学校で見る時と部活で見る時全然顔違う!学校で見ると心配になる。」と言われたと思います。私、どんな顔してたんだろう。


吹奏楽部の大会が終わるのが7月末ぐらい、そのあと定期演奏会が夏休み明け(本当はまだ夏休みだけど夏の全員受ける補講が再スタートのとき)でした。

定期演奏会まではきっちり出ました。その日出さなきゃいけなかった課題出せたか考えると出せてなかったと思います。

先輩が引退して、私はトランペットパートのパートリーダーに指名されました。部活全体の役職としてはそれから楽譜係。

頑張らなくちゃとまた思いました。私が、このパートをしっかり導かなくっちゃ、と。学校もちゃんとこなさなくてはと。部活だって、もう最高学年なんだから、と。必死でした。

必死なはずでした。

それでもやっぱり休みがちだし遅刻しまくるしトイレに引きこもることも多々ある、正しい生徒とは言えない状況でした。

もう純粋には楽しめなくなった部活のためだけになんとかやる気を続かせて、それが折れたのが、多分9月の体育祭の後でした。体育祭まではちゃんと頑張ってました。私覚えてる。

ここからさらに記憶が曖昧です。本当に覚えていない。時期もあやふや。なので、覚えてることを1個ずつ書いていきます。


・多分、夏休み明けてから、またいつものように遅刻してきてトイレに引きこもっていたところ、保健室の先生に見つかりました。体調が悪いことにして保健室で休みました。多分、2回、見つかった、んじゃないかな。

・担任と相談をして、しばらく相談室登校(保健室の隣にそんな部屋がありました)となりました。そこは私と同じように、教室に入れないとなった生徒がきて勉強してました。この授業は出れる!と思ったら出るようにと言われましたが、多分最初のうちはずーーーっと相談室に引きこもってました。全員で、3人か4人いました。

・県内の唯一の公立で通信制のある高校への見学を親に引きずられて行きました。

・親に、今どう思ってて、何が苦しくて、何が辛いのか、打ち出したものを見せました。ツイッターに書き散らしたものを、ガラケーのメモ機能でまとめて、それを見せたんじゃなかったかな。病院の先生にも見せました。

・春から通信制高校への転学を希望しました。

・親と病院の先生、どちらからも承諾されました。

・多分、担任に親が話しまして、私も担任と話し合い→「各教科の先生と話し合う(教室にいけない、転学をする、どうしたら単位をとれるかの相談)」ことが決まりました。

・5教科はちゃんと相談しにいったんですけど、体育、体育の先生本当に苦手で、ダメで、怖くて、ていうか多分私は5教科相談したら満足してしまって、体育は授業にも出ないし相談もしない、という状況になりました(結果、単位もらえませんでした)


まあそんなこんなで、私は快適な相談室登校ライフを送るようになりました。言われた課題をこなしたり、授業にきてほしいと言われた授業にはなんとか出席して、その授業が終わった瞬間相談室に戻って。

相談室には面白そうな本がたくさんあって、それをこっそり読み漁ってました。ソフィーの世界とかあったよ、面白かった。

学校辞める、と決めてからは、なぜか少し学校に行きやすくなってました。本当に不思議なことにね。前より笑えるようになったし。記憶もちょっとずつしっかりしてるんですよ、この辺から。

部活には、転学すると決めた時点で顧問に話に行きました。顧問の先生は受け入れてくれて、ただ、卒業式の演奏はしてほしい、あと指導はしてほしいと。その頃トランペットでなんだかんだ指導できるのは私だけ(うまい後輩くんはいるけど、私と同学年の子に指導できるかは別)だったので。

だから多分、卒業式の演奏はしたはずです。練習に参加した記憶もあります。ただ、クリスマスの演奏も一緒にした、と思います(曖昧)。一つ絶対に参加してないのは、冬頃に毎年やっていたアンサンブルコンテスト。部活内でメンバーを組んで先輩方も呼んで行うコンテスト。優秀グループは県のコンテストに出場、というもの。これ、一緒に曲考えたりしてた気がするんだけど、出てないなぁ。なんでだろう?多分、相談室になってぽつぽつ部活に行かなくなってたんだと思います。

部長なんかには自分で辞めることを告げました。次の年のコンクールの曲を決める前に伝えなければと。私はもう戦力になれないと伝えなければと。思ったので。



そう、そういえば転学を決めた理由をきちんと書いていないですね。

苦しくて辛くて、2年生になっても仕切り直せなくて、そこで、通信制という新たな道が見えて。心が揺れました。もう、この環境から逃げ出してしまおうか、と。

1年生の頃だったら。部活がでもあるし、と言ってた気がします。言わなかったのは、前述した、うまい後輩くんの存在です。私がいなくてもトランペット大丈夫だな、そう思ったんです。

今、このままここにいても、多分自分は頑張れない。もう授業についていくのが厳しいのに、受験となったら多分耐えられない。ていうか対策できない。自分の将来について、前向きな検討ができない。転学するって言ってもやだなんて言ってくれる友達もいない。私はここにいても無価値だってことが突きつけられて死にたくなるだけだ。だから、やめよう。やめなきゃ、私は、多分死ぬ。

そう思って、決めました。このシリーズの(1)でも書いたように、私は私でいられる時間が必要でした。甘えてると思われるかもしれませんけど。部活がその時間とは言えなくなって、学校という存在そのものが恐怖となっていって、あと1年、ここで頑張るのはもうできない、そう、強く感じました。


その後の、2年生後半はけっこうあっという間に過ぎていった気がします。転学手続きをすませ、相談室登校でごまかしながらですが単位をある程度もぎ取り、部活もある程度引き継ぎをして、そうして、春になって、3年生に上がるとき、私はそれまで通っていた高校を辞めて、新しい道へと進みました。



区切りがいいので今回はここまでかな。次回は転学後の話。まだちょっと続くよ!