みんなに聞いてほしいことがありま〜〜〜〜〜〜す!!!!!
『なーーにーー!!』って言ってくれた方ありがとうございます。何かよくわからなかった人は今すぐキンプリ応援上映に行ってください。
キンプリのサントラと楽曲集の発売は知ってたし予約する気でいっぱいだったんですけど、気が付いたら発売日でした。
ので、アニメイトでとりあえず買って、あと忘れないうちにとキンプリ円盤予約してきました初回限定版BDです内金半分ぐらい入れました金がない。
とまあ、とりあえず今回の本題に入ります。
あのさぁ……
ドラマチックLOVEは本当に名曲だね……
私結局5回観に行ったんですけどね。
エンティングの曲を聴くたびに、なんでか、すっごくあったかい気持ちになって。
ああこの曲好きだなぁって、しみじみ思ってました。
CDの1曲目に収録されていて、聞いた瞬間、ぼろっと泣いてしまいました。
名曲だなぁと感じる理由はいっぱいあると思います。
エーデルローズのプリズムスタァたちのことが思い出されたこととか。
なんかこの曲はゼウスことユウが作曲して作詞はみんなでしたという情報を聞いてたとか。
色々な、色々な理由なんですけど。
ドラマチックLOVEの、というか、キンプリの好きなところというか、ドラマチックLOVEはそのキンプリの象徴のようなものに私は感じているので、あの、まあとりあえず話だしますね。
なんだろう、ドラマチックLOVEを聴いていると「受け入れられている」という思いになるんですよね。
歌詞の中でいっぱい「君」って言ってくれるからかもしれません。
ドラマチックLOVEの歌詞の中で「君」がどんな存在か一回も明言されてないんですよ。「君」がどんな人間なのかという意味で。
「赤い糸」とか「恋した」という単語は使われているけど、「君」が男なのか女なのか。可愛い子なのか綺麗な子なのか。身長はどれぐらいとか。優しいとか可愛いとか元気とか明るいとか。
そういう言葉は一つも使われてない。
「君」でわかることは、笑顔にプリズムが詰まっていること、吐息が甘いこと(これは「僕」が感じていること)、「君」のメロディがあたたかいこと。ただそれだけです。
そういう曲確かにたくさんあるかもしれないけど、そうじゃない曲もたくさんありますよね。「細い手足が」だとか「スカートがひらり」とかそういう、人物としての具体性。
それが悪いと言っているわけではなくて、表現したいものの違いによってそこは変わるからそれに関して何か言う気は全くなくて。
ただドラマチックLOVEという曲は「君」が誰でどんな人間であっても肯定してくれる曲だなと私は感じるのです。
「どんな君でもいいよ」と歌っているわけではありません。でも「こんな君でいて」とは決して歌っていません。歌詞からわかるのは「僕」にとって「君」が大事な存在だということ。その「君」がどんな人かは聴いている私たちに委ねられている……もっと言うと「私」と思っていい、そんな歌です。
惚れ惚れしてしまいます。
全肯定をされているような錯覚に陥ります。
全肯定がいいか悪いかは置いておいて。
ただ君が君でいてくれたらいいんだ!そう歌っている曲のように私は感じます。
そしてそれは映画キンプリでも同じことを思います。
キンプリ(というかエーデルローズかもしれない)は個性を限りなく尊重した作品です。
本人の選択を肯定していく作品。
本人が本人でいることを許している作品。
「君は君でいいんだ」シンがオバレと出会って伝えられたメッセージにこれがあると思います。
応援上映もそうです。
「愛を伝えていい」「応援していい」
そういった感情を肯定しくれる世界と作品のように思います。
人が自分自身の気持ちに正直に、まっすぐに進むこと。自分自身で選択すること。自分自身として生きること。
キンプリの世界はそれを素晴らしいものだとしていると思います。
だからこそ、映画キンプリのEDに使用された「ドラマチックLOVE」はそういったものの一つの象徴のように感じます。
「君」がどんな人間かは言わず、ただ君がいると強くなれるんだ、元気が出るんだ、君が大好きなんだ、そういう愛を全力で、ぐぐぐっと伝えてくれる曲です。
ドラマチックLOVEを聴いて元気になれるのは、だからだと思います。
愛を純粋にまっすぐ伝えてくれる。
「君」の性別にも性格にも外見にも、なんにも囚われずに、ただただ大好きだよ!と伝えてくれる。
幸せでいっぱいになります。
愛を伝えるって、すごく難しいことだと思うんですけど、ドラマチックLOVEは約4分でそれを成し遂げるのです。
だから私は、ドラマチックLOVEが大好きなのです。
ドラマチックLOVEは、名曲だと思うのです。